安穏 戊
閉店に関するご報告

平成三十年文月

板長 坂上 勝.

すでにお聞き及びの方もいらっしゃると思いますが、平成三十年七月十七日を持ちまして、安穏戊を閉めることとなりました。平成二十三年四月の開店以来ご愛顧いただいたすべての皆様に、改めて感謝の言葉を述べさせていただくとともに、この度の経緯をご説明させていただきます。

安穏 戊の閉店後、私はすぐにスイス・ジュネーブで展開する飲食ビジネスの現場に入ります。料理人の一つのゴールである“自分の店を持ち、腕を振るう”という環境を持ちながらも、「なぜ、それを閉めてまで?」と多くの方は疑問に感じていらっしゃると思います。

私の目が海外に向いた率直な理由はこうです。自分たちで創り育ててきた安穏 戊という箱ではできないことをやってみたい――。

そのきっかけは、今から二年前の春、オーストリア・ウィーンにある日本食レストランの料理長のオファーが舞い込んだ事でした。前向きに検討したものの、その件は紆余曲折の末に流れましたが、思いがけず新たな道を示してくれました。

今の店ではなく、普段納めて頂いている食材ではなく、日ごろご贔屓頂いているお客様相手ではなく、全くの未知の地で、食材も、お客様の文化も慣習も嗜好も異なる場所で、丸腰で、包丁一本、腕一本で何が出来るのだろうか? と考えました。そこで勝負する事で、料理人としても人間としても殻を破る成長が出来るのではないかと思うようになったのです。

あるお客様に、こんなお話をしていただいたことがあります。

「物事には形無しと型破りがある。基本という型を知らずに何かをやっても形無しになるだけ。型を熟知しているからこそ斬新な型破りが果たせる。勝さんは確実に後者だ」

非常にありがたい評価でした。確かに、伝統的な和食の型については、料理人を志したときから必死に学び、自分なりのスタイルを得ようと努めてきました。そして安穏 戊での独立開業以降は、日々のお客様のリクエスト、おせち作りや料理教室開催などの機会を通じて、その型をより自分らしいものに成長させることができました。また、故郷の岩手の食材や生産者の方々との出会いも、私に多くの気づきと刺激を与えて成長させてくれました。

そんな自分の料理人としての『道』は今、『守破離』で考えたらどの段階にあたるのか自問自答するようになりました。

『守破離』とは、茶道や武道の世界で師弟関係の段階を示すものです。『守』は、師が持つ型を学び守ること。『破』は、既存の型を破ること。『離』は、あらゆる型から離れ自由になること。

師と呼べる存在を持たず独学で歩んできた私に『守破離』を当てはめて考えると、自分はまだ『守』の域に留まり、『破』の域には達していないのではないかと思いました。

海外に生活拠点を置きながら仕事をする。その環境の中で、自分が料理人としても、人間としても、大きな変化の中で『破』の域に至ることが出来るのではないか? 今まで築き上げてきた物とまた別のものを手に入れる事が出来るのではないかと考えました。

最初のウィーンのお話をきっかけに、我々の目が海外に向いた事で、色々な方から十件余りのオファーを頂きました。条件面などで折り合いがつかず2年の歳月が流れましたが、この度、スイス・ジュネーブのお話をいただき、和食の職人として新たな挑戦をする決意を固めました。

この度の決断でご迷惑をおかけしてしまうお客様や、お世話になっております生産・流通の皆様には、誠に申し訳なく、心苦しい思いでいっぱいです。そんな中でも皆様が快く送り出してくれました。その気持ちに対しては、感謝の気持ちしかございません。

いずれにせよ和食づくりにおいては幾多の困難が予想される土地で、生涯に渡り自分がやるべき型を見つけてきます。いずれ、日本に戻って来た時には今までとは違う、『離』の域に達した自分たちをお見せしたいと思っております。

最後に身勝手を申し上げますが、今後とも変わらぬお付き合いの程、なにとぞよろしくお願いいたします。


女将 坂上ちあき

開店以来七年三カ月に渡り、ご来店くださったすべてのお客様に心より感謝とお礼を申し上げます。本当に、本当にありがとうございました。

このたびの閉店に至った経緯は、板長がご説明した通りですが、私の女将としての考えも少しお伝えさせて頂きます。

身内を褒めるのはいささか気が引けますが、板長の坂上勝は、食材と生産者の方々に常に真摯に向き合い、食材がもっとも映える形で料理を提供する料理人です。彼の探求心には敬意を払う他ありません。しかし、日々の仕事に追われる中では、料理人としての才覚を存分に発揮できずにいるのではないか。そう思うことも多々ありました。

お客様の喜ぶ顔の為に、人一倍仕入れと仕込みに時間を費やす板長は、その料理人としてのスタンスを守りながらも、ランチとディナーの日々の営業に奔走し、休業日には料理教室やイベント、生産者さんを訪ねたりなど、一日中家にいる休みなど、年に片手で数える程でした。

そんな日々が今の板長を育ててくれたのは紛れもない事実です。しかし、その忙しさに日々追われ、本当にやりたいこと、本当はやりたいこと、それを出来ないでいる状況もあるのではないかと思っておりました。

今回の海外のお話は、そんな毎日をこなす日々から離れ、経営者という立場からも離れ、異なる刺激を受け、自由な思考で、一料理人として腕を振るえるチャンスなのではないかと思いました。

そういう思いもあり、今回の海外のお話は私が後押しして決めた話でもあるのです。いずれ、日本に戻ってきた時には、何の縛りも何の固定観念も無い、けれんみの無い、自然体の中から生まれる料理を提供してくれる事と思います。その日まで、どうか温かくお見守りください。

ここからの話は私、女将自身としての事となります。

安穏 戊には、他店の料理店の方々も多くご来店いただきましたが、そのたびに「こちらのお客様は素敵な方ばかりですね」と言って頂く事が多く、とてもうれしく思っておりました。たまたま隣の席に居合わせたお客様同士でも、「こちらのお客様は素敵な方ばかりだからお話していても気持ちがいい」と言って頂いたりする事もしばしばでした。そんなお客様にお越し頂けている事が、私の一番の誇りでもありました。しかし、そんな言葉を頂く度に、その誇りであり、大好きなお客様達に対し、私は本当に自分の目指す、自分のやりたいおもてなしが日々出来ているのだろうかという自問がありました。

お客様一人ひとりに向き合ったおもてなしができる店にすること。それが独立したときの夢であり希望でした。ですが経営者としての仕事量は膨大で、仕込みの作業を手伝ったりもする忙しい日々、そして大きすぎる箱(席数)の中で、おもてなしに100%の注力が出来ない状況もありました。

本当に自分の全力を尽くしたおもてなしが出来る空間と状況で、お客様をお迎えしたい……。

そう思う中で、板長の海外挑戦という事もあり、いささか持て余してしまった箱である安穏 戊を一旦閉めることを決意致しました。

私自身も海外に暮らす中で、色々な文化や慣習や嗜好を持つ人々と出会い、触れ合い、新たな気づきや、多くの経験を得て、女将としての器量に磨きをかけてまいります。

返す返すも、素敵なお客様たちに支えられながら、今日まで過ごすことができました。重ねて心からお礼を申し上げます。ここで一度、皆様とお会いできる箱を閉じさせていただきますが、SNSなどを通じて、何にも代え難い素晴らしいお客様とのご縁を今後とも紡がせていただきたいと思っています。

そして、安穏 戊に素晴らしい食財をお届け下さった、生産者の皆様、流通の皆様、本当にお世話になりました。皆様のお力添えがあったからこそ、お客様に自信をもって自分たちのお料理をお届けすることができました。

皆様、七年三カ月の間、ご愛顧いただき本当にありがとうございました。安穏セカンドステージでは今まで以上に皆様に喜んでいただけるよう、暫し、新たな勉強に行ってまいります。

また会える日を楽しみに、頑張ってまいります!!

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